ヘンリー・クレイ
ヘンリー・クレイ・シニア(英語: Henry Clay Sr.、1777年4月12日 - 1852年6月29日)は、19世紀アメリカ合衆国の政治家であり雄弁家である。ケンタッキー州を代表してアメリカ合衆国下院およびアメリカ合衆国上院両院の議員を務めた。
1824年までの第一政党制とそれ以後の第二政党制で主要な人物だった。他の者を合意させる能力故に「偉大な仲介者」かつ「偉大な調停者」と呼ばれ、ホイッグ党の創設者かつ指導者となり、経済を近代化する計画、特に産業を保護する関税、国立銀行および運河、港湾と鉄道を推進する内陸部の改良の指導的提唱者だった。
指導的タカ派でもあり、歴史家のクレメント・イートンに拠れば、「他の誰よりも」米英戦争の開戦に責任があった。また、「西部のヘンリー」とか「西部の星」とも呼ばれた。
クレイは何度も大統領になるために挑戦してその度に敗れ、かなりの程度まで第二政党制の問題を定義した。経済のアメリカ・システムの主要支持者であり、黒人奴隷制に関して妥協を生むことに成功し、特に1820年妥協と1850年妥協を成立させた。
ダニエル・ウェブスターとジョン・カルフーンと共に「偉大な三頭政治」すなわち「不滅のトリオ」の一人であった。1957年、ジョン・F・ケネディが議長をした上院委員会は、アメリカ史の中で偉大な上院議員5人の一人にクレイを指名した。エイブラハム・リンカーンはイリノイ州政界に早くから関与し、ケンタッキー州出身ということでは仲間だったので、クレイの大きな称賛者だった。
初期の経歴
ヘンリー・クレイは1777年4月12日、ヴァージニア州ハノーバー郡のクレイ家の敷地内にある当時のバージニア州農家としては平均以上の中二階木造住宅で生まれた。
ジョン・クレイ牧師とエリザベス・ハドソン・クレイ夫妻の9人の子供のうち7人目だった。父は「サー・ジョン」と呼ばれるバプテスト教会の牧師であり、4年後(1781年)に死んだ。父はヘンリーや兄弟達にそれぞれ2人、妻には18人の奴隷と464エーカー (1.9 km2)の土地を残した。
母は間もなくヘンリー・ワトキンス大尉と再婚したが、ワトキンスはクレイにとって愛情溢れる継父になった。母のエリザベスは既にいた9人の子供に加え、ワトキンスとの間で7人の子供を産んだ。
ヘンリー・クレイが6歳の時、クロバーボトム(現在のウェストバージニア州マーサー郡のショーニー湖地区)におけるインディアンの襲撃でまだ若い3人の従兄弟が殺された。1人は銃で撃たれ、1人は意地悪く刺し殺され、最後の1人はオハイオ州チリコシーに連れて行かれて火炙りにされた。
クレイはイギリス人教師ピーター・ディーコンから初等教育を受けた。その後バージニア州リッチモンドで店舗の助手として雇われた。